20年前  宮城県から静岡の少年院に送られた。
仙台の鑑別所の先生と警察の方か2~3人に囲まれ 仙台駅から東京駅へ
✒︎〔あの時はハヤテなんてなかったから東京まで2:30はかかった〕
✒︎〔赤いダボダボジーパンに黄色のパーカー、上には黒の虎のスカジャン 手錠をはめ布で隠し、ジーパンのベルト穴に縄を通され 両サイドの警官が2人でその縄をもっている状態での 新幹線待ちのホーム〕
東京駅で乗り換え 静岡駅へ。
新幹線から初めての富士山を見て ここ静岡 駿府学園に入る事となる。
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入るなり 服をぬぎ バリカンで丸坊主にさせられ独房に数週間 反省から始まる。

集団寮に移ってからは茶園科というお茶っぱを育て摘み取る作業をする。
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霜焼けで パックリ割れた指や手からは血がにじむ。

トータル8ヶ月位だったろうか  社会とはしっかり切り離され  ただ反省更生の規則正しい生活の毎日。14才。中学卒業して間もない頃の話。

中での生活は 私語禁止 軍隊の様な毎日。
『チー、ニッ、サン、シー、ゴー、ロクッ、シチッ、ハチ』 
毎朝6:30からの点呼から1日が始まる。
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ここの生活になれてしまうと 外〔社会〕に出るのが怖くなる。僕もそうだった。
〔10分位見れる新聞の広告欄に『安室奈美恵愛用たまごっち』の文字 たまごっちって何!?外は今どーなっちゃってるの!?〕と時代の変化 社会の流行や当たり前を知らない事に恐怖すら覚えた。

宮城県から月に一度 日帰りで僕に面会に来てくれる親に 
ごめん ありがとう の一言すら言えず、、
その時にしか食べれないお菓子を食べて  たいして挨拶もせず 一瞬の面会時間は終わりをむかえる。

面会がおわると ただただ涙がポロポロとこぼれ落ちる。
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ここでの 生活を終え 社会に出てから
その後の人生を大きく左右する

・以前の友人との付き合い方
・所属していたグループとの付き合い方
・親との向き合い方
・高校(大学等)のこと
・少年院と社会のギャップ
・社会に馴染めない
・孤独に耐えられない
 
などなど、 再犯しない為に自分が社会に出た時をイメージし 自分と向き合っていく生活。

今ここで生活する子ども達に
おなじ経験をした僕の 社会にでてからの人生を伝えていきたい。
【正しく素晴らしい人生に どんなマイナス環境からももっていける事。人よりも苦しんだ環境のあなた達だからこそ出来ること】
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僕の夢の1つ  僕のいた少年院へ慰問が来年度叶います。 あたらに再出発する子ども達へチャンスのきっかけを与えてあげたい。

出所日 出所式の最中に体育館の扉が開き 母が入ってきた。 出所式 沢山の生徒の前で宣言をするのだが 真正面のずっと後ろでジッと見つめていた担当の先生の姿を今でもはっきり覚えてる。

もちろんこの時も 涙がポロポロと止まらない。
ガラガラと音を立てて開く扉から母が入ってきて みんなの前で緊張しながら決意表明 。大好きだった担当の先生が 1番後ろから ジッと見つめていた姿  直接お別れも言えない。 緊張と不安と感動と急な展開にもう頭の中はパニック状態だ。 

出所しタクシーで静岡駅へ
母と上る階段  『上れない』『歩けない』
隊列を組んで 掛け声と共にじゃないと歩けない体質になっていた。

周りの 普通に規則なく自由に歩く人のタイミングに、混乱し 、上る階段でつまずく僕をみて母は爆笑していた。
懐かしい思い出。

その時静岡駅で 母から『アンジャーノンに花束を』の本を買ってもらった。 本が苦手だったが
すらすら全て読むことができ、何度も読み返した記憶がある。

この少年院生活が 今の僕を作っている。

【感謝】

20年ぶりの僕を 先生達が覚えていてくれた
『遠くから来た目つきのするどい八重歯の男』
だって 笑
僕らのボランティア活動 潜水活動を知っていてくれて 泣いて喜んでいた。
嬉しい嬉しいって。

ぜひ ここの子ども達に話してあげてほしいって。
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感謝を伝えに 勇気をだして踏み込んだ一歩
又 沢山の感動に触れ これからの世界が更に広がる。

ありがとう。
生まれてこれて よかった。
親に感謝  先祖に感謝

【僕の出来る恩送り】